私どもの歴史

  • シンガポール、ライオンシティー

    シンガプーラは、シュリーヴィジャヤ王国のサン・ニラ・ウタマ王子により、11世紀に発見されたと言われています。この国の名前は、当時、王子が川の近くにいたライオンを偶然見つけたことに端を発します。シュリーヴィジャヤ王国にとって、ライオンは忠誠や神を象徴する動物でした。Sri Tri Buanaはその後、彼が入植した新しい都市を「シンガ・プーラ(ライオンシティ)」と名付けました。

    その後シンガプーラは、大きな発展を見せ、多くの外国人が往来するようになります。

    14世紀後半には、この島を支配するために、ジャワ島人が大艦隊を送り込みました。シュリーヴィジャヤ王国は崩壊し、住民たちも戦火を逃れるために、様々な場所への移住を強いられました。

    同時に都市自体も、森林の溢れるジャングルへ姿を消してしまいました。唯一残されたものは、巨大な城壁や王室の墓石、そして都市への国境に置かれていた大きな石のモニュメントのみでした。

  • 1819年 – ラッフルズの到着

    1819年の2月6日、スタンフォード・ラッフルズはセントジョン島に降り立ちました。シンガポール川をボートでわたった際に高くそびえたつ岬を見つけた彼は、まるで古代の王室都市の守り神のようだと言う印象を持ちました。

    この岬には、先述の石のモニュメントが置かれていました。モニュメントには古代の文字が彫り込まれていました。それを見たラッフルズは、シンガプーラの失われた都市を発見したと確認したのです。彼はここに英国旗を掲げ、島の名前を「シンガポール」と改めました。

  • 1820 – フォート フラトン

    1820年代に、この岬に砦が建設されました。初代知事であるロバート・フラトンの名前を取って「フラトン要塞」と名付けられたこの場所からは、北はシンガポール川、南はシンガポール港まで見渡すことができました。

    そしてその数年後には、シンガポール川沿いには様々な倉庫やショップが用意され、にぎやかな雰囲気が広がり始めました。シンガポールハーバーには、毎日数百もの船が行き来するようになり、地平線の向こうまで帆柱と高く上げられた帆で埋め尽くされるほどでした。「サンパン」と呼ばれる小型の平底船も、倉庫とショップの間を慌ただしく移動していました。

    たくさんの船が交差する慌ただしいエリアにおいて、フラトン要塞の半島は、人々に安らぎを与える場所でした。役人たちのためにバンガローが設置され、さらに「フリントストリート」には兵舎も用意されたのです。1854年には、フラトン要塞の拡張工事を実施。海軍用大砲等が準備され、敵軍艦からの攻撃に備えました。

  • 1867年 – フラトン スクウェア、シンガポールの貿易と商業の中心地

    しかし1860年代までは、このエリアはシンガポール川沿いと同様に、土地面積の少なさから、土地の価格が急騰すると言う問題に直面していました。

    その後、この新しい土地が、軍隊を配置するために利用されることとなり、フラトン要塞は都市の商業的な発展のために取り壊されることになりました。1873年には、同要塞に設置されていたオフィスや兵舎、大砲等もすべて、現在のセントーサ島に撤去されました。

    フラトン要塞の跡地には、中央郵便局(General Post Office)、商工会議所(the Chamber of Commerce)、シンガポールクラブ(Singapore Club)という、シンガポールの商業にとって非常に重要な3つの施設が入りました。フラトン要塞は、軍事目的のために使用されていた頃の役割を終え、貿易と商業の中心地として機能し始めたのです。

    1867年には、コールヤーキー(Collyer Quay)の開発が進み、さらに中央郵便局へ向かう通りでもあるカベナ橋が完成しました。また同年に、エクスチェンジビルディングが新しい中央スクウェアとなりました。この場所は「フラトン スクウェア」と名付けられ、「エンプレスプレイス政府オフィス」等をはじめ、商業・政治の中心的なオフィスが数々とつくられました。

    フラトン スクウェアは、シンガポールの中心的なエリアとして機能したのです。フラトン スクウェアに大勢の人々が集まる時間であった14時は、「エクスチェンジアワー」と呼ばれていました。このエリアには、シンガポールの貿易関係者や役人、各界のリーダー達が集まり、様々な取引を交わし、さらにシンガポールの今後の問題等を議論し合いました。

  • 1919年 – シンガポールの初めての世紀

    1919年、シンガポールは初めての世紀を迎えました。様々な場所で祝賀ムードが溢れ、社会全体に豊かで明るい雰囲気が広がり始めました。この年は、新たな世紀を祝うフェスティバルやプロジェクトが多数実施されました。

    なかでも同年に行われたフラトン ビルディングの建設は、シンガポールの歴史上最も大がかりな建設プロジェクトでした。同ビルは旧フラトン要塞の全エリアを利用して建設されました。そのため、シンガポール川や港への見晴らしも、以前と同様最高のものでした。非常に斬新なデザインが人目を引いたフラトン ビルディングは、シンガポールの豊かさと力の新しい象徴として、多くの人々に受け入れられました。その魅力は「この都市で必ず訪問するべき建物の一つ」と、当時の総督が発言するほどでした。

  • 1928年 – フラトン ビルディング

    この建物の設計を担当したのは、ロンドン出身の建築家であるMajor P.H. Keysでした。1920年にシンガポールに到着した Major Keys は、フラトン ビルディングの設計に着手する際、アテネのパルテノン神殿など、ギリシャの古典建築のデザインやコンセプトを応用しました。彼は荘厳な雰囲気を漂わせる伝統的なポーチや装飾を活用することで、権力の象徴となる建物を完成させようと考えたのです。

    1924年に着工した同ビルは、費用の問題など紆余曲折ありましたが、1928年に完成しました。

    1928年6月26日のフラトン ビルディング披露式典にはヒュー・クリフォード知事も参加し、完成したばかりの同ビルの素晴らしさを語りました。

    フラトン ビルディングは、当時のシンガポールの伝統的なデザインが施されたモニュメントでもありました。その後、同ビルは都市を象徴する建物として、多くの注目を集めるようになりました。同ビルには、中央郵便局をはじめ、政府当局や経済に関わる重要なオフィスが多数置かれたため、多くの人々が出入りしていました。

    第二次世界大戦中も、フラトン ビルディングによる爆撃の被害を逃れることができました。同ビルは、1942年まで、シェントン・トーマス知事の最後の砦として利用されたのです。

  • 1958 – 導きの光

    1958年12月14日、「フラトン ライト」として知られるフラトン ビルディングの灯台が初めて披露されました。この灯台は、シンガポールから約33キロ離れた場所まで光が届き、多くの船を岸に向かって先導する役割を果たしました。以前はフォートカニングヒルにある築103年の「フォートカニングライト」が使用されていましたが、都市に高層ビルが立ち並ぶようになったことから、より高い場所に新しい灯台を設置する必要が生まれたのです。

    海に面しているフラトン ビルディングは、灯台を設置するのに理想的な場所でした。英国のStone-Chance Ltdが建設した「フラトンライト」は、海抜50メートル以上の高さであるフラトンビルディングの最上部に導入されました。

    多くの船が、フラトンライトの光を手掛かりにしながら、岸へ到着するようになりました。当時、この灯台は8名のスタッフが担当しており、毎日4つの灯台を管理していました。

    1,080 60 ワット分の電力を生み出す灯台は、電気だけでなく、灯台自体に備えられた発電機を使って作動していました。白色のシグナルライトが、20秒間に4度発せられるという、非常に強力な装置でした。

    フラトン ライトハウスは、1979年11月30日にその役割を終えました。フラトン ビルディング付近に多くの高層ビルが建設されることになったのが主な理由でした。

  • 1965 – シンガポールの独立

    第二次世界大戦後、シンガポールは独立への道を歩み始めました。フラトン ビルディングの屋根付き玄関からファイブ・フット・ウェイにかけて、多くの群集が集結し、ムルデカ(merdeka。「独立」の意)を支援する声を上げたのです。

    シンガポールの独立国家としての歴史が始まったのです。その後、フラトン ビルディングには、シンガポール経済開発庁や財務庁、貿易庁等のオフィスが設置され、この国の経済成長の中心となっていきました。

    フラトン ビルディングはマリーナベイやシンガポール川、そして都市の様々な活動を見守る、歴史の証人として存在するようになりました。その後、シンガポールは、驚くほどの経済成長を急速に遂げていき、製造、IT、石油精製など様々な分野において、世界のビジネスの主要都市として広く認知されていきました。

  • 1997年 – 革新の開始

    20世紀が終わりを迎え、21世紀が始まった時期に、フラトン ビルディングの新たな改装計画が提案されました。同ビルは、新たな世紀の様々なニーズに対応するために、大きな変化を求められたのです。

    シンガポールの歴史を目撃し続けてきたこの建物は、新しく生まれ変わるために、一時的に閉鎖され、保管されました。その後改装工事が始まり、ビルの外観には大掛かりな修復作業が行われました。2001年、フラトン ビルディングは「フラトン ホテル シンガポール」となり、新しい歴史の一ページを刻んだのです。

  • 2001年 – 開業

    フラトン ホテル シンガポールは2001年1月1日に開業しました。1928年の設立以来、フラトン ビルディングはシンガポールの商業、社会面で中心的な役割を担い続けており、世界中の旅行者にも広く認知されていました。

    この建物が持つ美しさや、歴史を感じさせる荘厳な雰囲気はそのままに、フラトン ビルディングは上質なホスピタリティの象徴として生まれ変わったのです。

  • 2015年 – フラトンの物語 
    フラトン ヘリテージのはじまり

    フラトン ヘリテージは2001年以降、シンガポールのウォーターフロントに面した歴史ある建物の保存プロジェクトを続けることで、21世紀の生活を世界に向けて再定義する活動を行っています。

    フラトン ヘリテージ エリアは、都市へのコミットメントと献身の歴史に溢れているのです。私どもの4つの歴史ある建物に関する詳細は、以下からご覧いただけます。

フラトン ホテル

第一次世界大戦が終結して間もない1919年に、フラトン ホテルの建築計画が生まれました。後に「この都市で必ず訪問するべき建物の一つ」と、当時の総督であるロバート・フラトンが発言するほどの魅力を、この建物は備えていました。フラトン ビルディングは、ドーリア式の円柱をはじめ、非常にクラシカルなスタイルを持つパラディアン様式の建物として1928年に完成しました。

同ビルには中央郵便局をはじめ、取引所などの政府機関のオフィスの他、Master AttendantやSurveyor-General、Port Health Office、Veterinary Surgeon、 Imports and Exports Offic(輸出入関連オフィス)等、様々な重要な機関が入居しました。

当建物は、シンガポールの歴史を目撃してきただけでなく、シェントン・トーマス総督が、1942年の日本軍との戦いの際に、最後の砦として利用した場所でもあります。さらにフラトン ビルディングは、第二次世界大戦後に英国からの独立運動が発生した時代にも、政治集会のために様々な人々が利用しました。多くの観光客の関心を集めているシンガポールストーンも、この地で発掘されたものです。

今日、当建物は、400室の客室を備えている「フラトン ホテル」として、世界中の旅行者に上質なおもてなしを提供しています。フラトン ホテルは、都市の中心地で、ラグジュアルでエレガントな空間を、多くのお客様にご用意しています。

クリフォード・ピア

船乗りたちの目印として利用された伝統的な『赤い提灯(Red Lantern Pier)』が美しく飾られたクリフォードピアは、現在、タクシードライバーや地元のシンガポール人達に広く利用されているエリアです。赤い提灯がかけられたクリフォード・ピアは埠頭として活躍し、これまでに多くの小型船を迎えてきました。

20世紀に移民と貿易の中心として活躍してきたクリフォード・ピアは、現在、シンガポールの豊かな歴史を想起させる重要な場所として、政府の保護を受けています。1万5千平方フィートの広さを誇る同エリアは、その後改装工事が行われ、現在は様々なレストランやエンターテイメント施設が用意されており人気の観光スポットとして生まれ変わっています。

かつてシンガポール川を渡ってシンガポールへたどり着いた、クリフォードピアの船頭たちの古き良き思い出は、こちらからお聴きになれます。

フラトン ウォーターボートハウス

Swan & Maclarenがデザインを担当したウォーターボート ハウスは、アールデコ様式を特徴とした建物として1941年に完成しました。3階建ての当建物には、落ち着きのあるゆったりとした空間が広がっています。フラトン ロードに面した外観には、半円型の塔状構造を持つ美しいファサードがあり、多くの観光客の関心を惹きつけています。19世紀には、この場所は1852年に港をケッペルに移動させるまで、Master Attendantのオフィスとして、様々な活動を管理するために利用されてきました。その後、「ウォーターオフィス」が建設され、港に向かってくる船のために新鮮な水を供給していました。同オフィスは1990年に閉鎖。その後2002年の3月21日には、ウォーターボートハウスは、政府の保管対象エリアとなりました。2005年には、その改装工事が高く評価され、URA Architectural Heritage Award(URA建築ヘリテージアワード)を受賞しました。

現在、ウォーターボートハウスには、エスプラネード橋の美しい眺めを楽しめるレストランが用意されています。またレストランからは、マリーナベイのオーシャンビューや都市の景色も広がっており、観光客に人気のスポットとなっています。

カスタムハウス

シンガポールを代表する港であったカスタムハウスは、1969年当時は、シンガポール関税警察のオフィスの一部として利用されていました。その頃には23メートルという高さを誇る管理塔があり、海上付近での犯罪を監視するために活用されていました。犯罪行為が発見されると、塔内の警察官たちがすぐさま地上へ移動し、ボートで容疑者達を追いかけていました。カスタムハウスには、海賊行為に関わる様々なストーリーが存在しています。このエリアは、そうしたシンガポールの歴史の一部分を観察し続けた目撃者と言えるかもしれません。

今日、当エリアは国際的に知られているレストラン街となり、多くの観光客で賑わっています。マリーナベイのパノラマビューや、金融街(CBD)の活気に溢れた景色を堪能しながら、様々なお食事メニューを楽しめます。改装時も、窓枠などの一部の内装は残されたこともあり、現在も当時と似た雰囲気が広がっています。ウォーターフロントに面したユニークな建物を眺めると、シンガポールの豊かな歴史や文化を感じることができるでしょう。